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戦国武将

長宗我部元親

一代にして四国を統一した猛将「長宗我部元親」。元親は家督を相続してから12年で土佐を統一し、その後11年かけて四国を平定する。しかし、豊臣秀吉に戦わずに降伏したことで土佐一国を安堵したものの、一代で築き上げた四国を一瞬で失うことになった。

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家督の相続

長宗我部元親は天文8年(1539年)に岡豊城で生まれます。永禄3年(1560年)5月に父である長宗我部国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた「長浜の合戦」において実弟の長宗我部親貞と共に初陣します。一般的な武将に比べて遅い初陣でしたが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを証明したといわれています。この一戦で元親の武名は高まり、続く「潮江城の合戦」でも戦果を挙げました。永禄3年6月、父の国親が急死すると、家督を相続することになりました。

土佐統一

元親は積極的に勢力拡大を行いました。「長浜の合戦」で敗れた本山茂辰は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における西南部の一端を除いて、元親はほとんどを支配下に置くことに成功しました。永禄4年(1561年)3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城と吉良城に追い込みます。土佐国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名の一条氏と共闘し、永禄5年(1562年)9月16日に朝倉城攻めを行います。この時は茂辰の子で元親の甥に当たる本山親茂の奮戦で敗北してしまいます。9月18日には鴨部の宮前で両軍が決戦するも痛み分けに終わりますが、勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年(1563年)1月に茂辰は朝倉城を放棄して本山城に立てこもることを決断。本山方は5月に起死回生の岡豊城への攻撃を企てるも失敗します。永禄7年(1564年)4月7日には本山城を放棄して瓜生野城に立てこもり徹底抗戦しますが、この最中に茂辰が病死。跡を継いだ親茂も徹底抗戦するものの遂に敗れて、永禄11年(1568年)冬に降伏します。この結果、元親は土佐中部を完全に平定しました。

一方、土佐西部では永禄10年(1567年)の毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を目論み、河野氏の武将・村上吉継へ独自に戦勝祝いを送るなどして独立性を強めていきました。永禄12年(1569年)には「八流の合戦」で安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。元亀2年(1571年)一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込みます。天正2年(1574年)2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てることに成功。こうして元親は土佐国をほぼ制圧したのです。天正3年(1575年)に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできた時には、一時的に窮地に追い込まれましたが、弟の吉良親貞の尽力のもと「四万十川の合戦」で見事にこれを撃破し、土佐国を完全に統一しました。

伊予国・阿波国・讃岐国への侵攻

土佐統一に成功後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、それによって伊予国・阿波国・讃岐国への侵攻を決断します。
阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れた結果衰退していましたが、十河存保や三好康長らなどの三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576年)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進みませんでした。しかし、天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど三好氏の勢力低下が目立つようになります。
天正6年(1578年)2月、元親は阿波の白地城を攻め大西覚養を討ちました。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込みました。阿波では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗しますが、元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝します。康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させました。この年には讃岐の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧することに成功しています。
伊予方面においては、南予では軍代であった久武親信が天正7年(1579年)春に岡本城攻めで土居清良の前に戦死するなどしましたが、東予では白地から圧力と誘いをかけて金子元宅や妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定。しかし、中予を支配していた伊予守護の河野氏は毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになりました。

四国平定

元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を「中富川の合戦」で破って、阿波の大半を支配下に置きました。その後、勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定します。
天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の合戦」では、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗します。 これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路洲本に入れて備えます。また、元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも敗退。さらに小西行長の水軍に香西浦を攻めさせるも敗退しました。しかし、天正11年(1583年)4月に勝家は秀吉に敗れて滅んだため、5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していました。
天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」でも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗して、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を撃破しました。また、東伊予の金子元宅と同盟し、南伊予の西園寺公広の諸城を落とすなどして、伊予国においても着実に勢力を拡大。6月11日には十河城を落として讃岐を平定します。しかし、「小牧・長久手の戦い」は秀吉と信雄が和睦するという形で終結しました。
伊予の平定は予想以上に手間取ります。天正12年3月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突します。4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間で合戦を行っています。8月には小早川氏の将である杉就良によって現在の新居浜市を落とされました。しかし、元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じ、渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になって、12月になると遂に河野氏は元親に降伏しました。その後、天正13年(1585年)春までに西予の豪族なども全て降伏させました。この結果、天正13年(1585年)には四国全土をほぼ統一することに成功しています。

詳細情報

  • 生没年:1539年?月?日〜1599年5月19日(天文8〜慶長4)
  • 出身地:土佐国(高知県)
  • 肩書き:武将
  • 通称:土佐侍従
  • 別名:姫若子、鬼若子、土佐の出来人
  • 幼名:弥三郎
  • 法号:雪溪怒三
  • 官位:従四位下、土佐守、侍従、宮内少輔、贈正三位
  • 享年:61歳

年表

  • 1539年:土佐国に生まれる
  • 1560年:初陣を飾り、家督を相続する
  • 1572年:土佐を平定する
  • 1582年:阿波・讃岐を平定する
  • 1583年:四国を統一する
  • 1585年:豊臣秀吉に降伏して土佐一国を安堵される。(四国を失う)
  • 1586年:豊臣秀吉の九州攻めに従軍する
  • 1590年:小田原城攻めに参戦する
  • 1599年:京都の伏見屋敷で病死

長宗我部元親肖像画

長宗我部元親

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