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戦国武将

伊達政宗

独眼竜として知られる東北最大の英雄「伊達政宗」。出羽国と陸奥国の戦国武将・戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。伊達氏第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。わずか24歳という若さで奥州をほぼ手中に収めることに成功した名将である。片倉小十郎という無二の忠臣を有していたことでも有名。

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幼少期

永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で生まれた。幼名は梵天丸。天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。諱の「政宗」は父である伊達輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主:大膳大夫政宗にあやかって名づけた。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。
天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。

家督の相続

伊達政宗は、天正12年(1584年)10月に18歳の若さで家督を相続し、伊達家17代を継承する。政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門や重臣の勧めを受けて家督を譲り受けることを承諾した。

奥州平定

関白:豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、伊達政宗は秀吉の命令を無視して合戦を繰り広げた。

天正16年(1588年)、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。さらに、政宗への反感を強めていた伯父:最上義光が大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされたが、両軍の間に割って入った母:義姫の懇願により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。一方、これに乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきたが防衛し、愛姫の実家:田村氏領の確保に成功した(郡山合戦)。

天正17年(1589年)には会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。この後、政宗はさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に消極的になっていた佐竹氏側から結城義親、石川昭光、岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属した。

数々の合戦の結果として、政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え、白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。

詳細情報

  • 生没年:1567年8月3日〜1636年5月24日(永禄10〜寛永13)
  • 出身地:出羽国(山形県)
  • 通称:独眼竜、奥州の龍、東北王
  • 別名:藤次郎
  • 幼名:梵天丸
  • 官位:従三位、権中納言、贈従二位
  • 享年:70歳

年表

  • 1567年:出羽国に生まれる
  • 1584年:家督を相続
  • 1589年:蘆名家との合戦に勝利して蘆名氏を滅ぼす
  • 1590年:小田原征伐に遅れて参戦するが豊臣秀吉に許される
  • 1593年:文禄の役で海を渡る
  • 1600年:関ヶ原の合戦で白石に出陣する
  • 1636年:江戸藩邸で病死

伊達政宗肖像画

伊達政宗

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戦国時代の武将とは
戦国武将とは、応仁元年(1467年)に戦国時代の幕開けのきっかけとなった大乱である応仁の乱が勃発してから、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で摂津大阪城が落城するまでの約一世紀半の間に、武力・知力・財力などを用い、その名を天下に知らしめた武将のことです。
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