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戦国武将

城作りが一番上手だった戦国武将

応仁の乱が勃発してから新たに城を築くことを禁止した江戸幕府が誕生するまで、日本中に約3万ほどの様々な城が築かれていた。城は権力の象徴としてだけではなく、合戦における砦として大きな役割を果していた。その城の設計を手掛けていたのも戦国武将たちであった。それでは、一番城作りが上手だった戦国武将はいったい誰であったのだろうか?

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第一位:真田昌幸

城作りが最も上手だった戦国武将は「真田昌幸」である。昌幸は自身が築いた上田城において、徳川家が率いる軍団を2度も撃退することに成功した。それも昌幸が率いた軍勢は徳川軍団の数分の一程度であったのだ。つまり、本来であれば圧倒的不利な合戦であったのだが、上田城をうまく戦略的に活用することにより徳川軍団に勝利することができたのだ。まさに上田城こそ最高の砦ということができるだろう。上田城は城下町も含めて全体的に合戦向きな作りとなっていた。一度目の徳川軍団の侵攻に対しては、徳川家康の軍勢を城下町に誘い入れて、軍勢が二の丸に到達した瞬間に上からあらかじめ準備していた大木を落としたり、隠れていた兵士が弓矢や銃弾を一斉に放ったりした。これにより家康の軍勢は大混乱に陥り、そこを昌幸の軍勢が一気に攻めて壊滅させている。二度目の徳川軍団の侵攻は徳川秀忠が率いていた。この時も、家康の時と同様に敵の軍勢が深追いしてきたところを奇襲して壊滅させることに成功している。真田昌幸にとって城作りとは戦略の要であったのである。

第二位:加藤清正

加藤清正が作った城の中で最も有名なのが「熊本城」である。熊本城は周囲約12キロメートルに及ぶ大規模なつくりとなっており、そそり立つ石垣は何人も寄せ付けない。この城の石垣技術は徳川家康も絶賛している。また、城の中には井戸が約120ヶ所もある。これは、何年籠城することになっても水不足に困ることのないようにするためである。そして、この熊本城の凄さを物語るエピソードがある。熊本城が築かれてから280年後の明治10年に「西南の役」が勃発したのだが、その戦いで活躍したのが熊本城なのである。熊本城にいた軍勢4千に対して、西郷隆盛が率いた軍勢は1万3千であった。この圧倒的兵力の不利をものともせず、54日間続いた西郷軍の猛攻に熊本城は見事に耐えたのだ。加藤清正がいかに堅固な城を築いたのかがよくわかる話である。

第三位:藤堂高虎

豊臣秀吉や徳川家康に信頼されていた城作りの名手「藤堂高虎」。高虎は豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に仕えてから、宇和島城、駿府城、伏見城、今治城、淀城など数多くの城を築いていった。このため、高虎は城作りのための大工と石工の集団を抱えていた。豊臣秀吉没後、高虎はその城作りの腕を買われ徳川家康に仕えることになる。江戸城の改築では基本設計を任されるほど、家康は高虎の技術を高評価していた。家康没後は、日光東照宮の建築にもその築城技術を駆使して活躍している。藤堂高虎は、武力ではなく城作りにおいて輝いた戦国武将といえる。

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戦国時代の武将とは
戦国武将とは、応仁元年(1467年)に戦国時代の幕開けのきっかけとなった大乱である応仁の乱が勃発してから、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で摂津大阪城が落城するまでの約一世紀半の間に、武力・知力・財力などを用い、その名を天下に知らしめた武将のことです。
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