最高の武将『直江兼続』
豊臣秀吉が「天下の仕置きを任せられる」と絶賛した武将「直江兼続」。
幼少の頃から主君である上杉景勝に仕えており、その生涯にわたって景勝を支えた。
豊臣秀吉の没後、徳川家康が天下獲りに動き出した際には、「直江状」という真っ向から対峙するという書状を家康に送りつけている。
出生について
直江兼続の出生については諸説あります。
通説では永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、
現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説があります。また、父である樋口兼豊の身分についても様々な見解があります。
米沢藩の記録書『古代士籍』・『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方で、
『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったといわれています。
さらに、母については上杉家重臣・直江景綱の妹とする説と、
信州の豪族・泉重歳の娘とする説があります。
永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われています。
直江家相続の経緯について
上杉謙信の急死後の天正6年(1578年)に勃発した「御館の乱」では、
父:兼豊と共に上杉景勝方に就いて戦いました。
天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が目立つようになります。
天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙の二人が毛利秀広に殺害されるという事件が起きます。
兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となりました。
その結果、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となります。
上杉謙信と豊臣秀吉からの評価
直江兼続は上杉謙信にその才気と美貌を見出され、
小姓・近習として近侍し信頼の厚い近臣であったといわれています。
しかし、実際のところ生前の謙信と兼続の関わりを示す信憑性のある史料は一切確認されておらず、
青少年期の兼続が謙信に近侍していたのかどうかははっきりとはしていません。
また、天下人・豊臣秀吉から大きな信頼を得ていた直江兼続は、この日本で最も政治が行える武将の一人であるという最高の評価をされています。
伊達政宗との不仲説
豊臣政権下の時代、ある時伊達政宗が同席していた諸大名に天正大判を回覧すると、
直江兼続だけがそれを素手ではなく扇子で受け撥ねるようにして表裏を見ました。
政宗は陪臣である兼続に「遠慮をすることはない」と言って直接手に取って見るように勧めたところ、
兼続は「私の右手は戦場にあっては先代・上杉謙信の代より采配を預かるもの。
不浄なものを触れるわけには参りません。」と言って、天正大判を政宗の下へ投げ返しました。
また、徳川政権下の時代、ある時兼続は江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違いましたが、会釈すらせずに素知らぬ顔で素通りしました。
政宗がこれを咎めると、兼続は「政宗公とは戦場で幾度もお目にかかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」という返答をしました。
つまり、これらの話から直江兼続と伊達政宗はかなり不仲であったことが推測できます。
「愛」の兜の由来について
「愛」という字を前立にあしらった兜は非常に有名で、
現在は直江兼続の所用として米沢市の上杉神社稽照殿に保存されています。
これは、上杉謙信が「愛宕神社」に「武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書」を歴代古案に集録していて、その愛宕神社の愛からとする説が有力です。
詳細情報
- 生没年:1560年?月?日〜1619年12月19日(永禄3〜元和5)
- 出身地:越後国(新潟県)
- 肩書き:武将
- 通称:直江山城守、直江城州
- 幼名:興六
- 官位:従五位下、山城守、贈従四位
- 享年:60歳
年表
- 1560年:越後国に生まれる
- 1564年:上杉景勝に近侍する
- 1578年:御館の乱
- 1581年:直江家を継ぎ与板城主になる
- 1582年:天正壬午の乱
- 1586年:新発田重家の乱に勝利
- 1598年:景勝の会津移封に伴って米沢を領す
- 1600年:長谷堂合戦
- 1619年:江戸で病死
直江兼続肖像画
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