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戦国武将

徳川家康

戦国時代最後の勝利者であり時代を江戸へと導いた「徳川家康」。戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪・松平氏。
徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。
家康が初代将軍を務めた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を築き上げた。

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清洲同盟

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた時、今川軍本隊とは別の部隊で前線の尾張国・大高城で休息中であった家康は、大高城からの撤退を決める。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。
永禄5年(1562年)には、一足先に今川氏を見限り、織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して織田信長と同盟を結んだ。この徳川家康と織田信長の同盟が「清洲同盟」である。

三河国統一

西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧する。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一することに成功した。

武田家との争い

徳川家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると同時に駿河今川領を確保し、元亀3年(1572年)10月には徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した。

武田氏はもともと織田氏とは友好的関係であったが、信長と反目した将軍:義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を集結して信長包囲網を企て、武田氏もこれに加わるかたちで挙兵することになった。信玄は元亀3年(1572年)10月に遠江・三河に侵攻し、これにより武田氏と織田氏は手切りとなった。家康は織田氏に援軍を要請するが、織田氏も信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍を送ることができず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなった。

遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進軍した。浜松の北方を固める要衝:二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この一言坂の戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた頃、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、予想を裏切る形で、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように進軍した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃することを決定した。しかし、その結果”鳥居忠広”、”成瀬正義”や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした”中根正照”、”青木貞治”といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、”平手汎秀”といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。夏目吉信に代表される身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからは冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている(三方ヶ原の戦い)。

浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって、三河設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから、信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。

武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。信長の家康への支援は後手に回っていたが、天正3年(1575年)5月の「長篠の戦い」では主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくされ、一方家康は戦勝に乗じて諏訪原城、二俣城を攻略し武田氏への優位を確保した。

本能寺の変

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、徳川家康は織田信長の招きに応じて信長の居城:安土城を訪れることになった。しかし、信長が家康を謀殺するという説もあり、本多忠勝などの選り抜きの家臣団と共に行動していた。
そして、6月2日家康が堺を遊覧中に京で「本能寺の変」が起こった。この時の家康のお供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであったという。しかし、本多忠勝などの家臣団に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。
その後、家康は明智光秀を討つために急きょ軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、この時、すでに中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀が討たれていた。つまり、秀吉に先を越されていたのである。

小牧・長久手の戦い

「本能寺の変」後の織田政権において、織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は織田信長の次男:織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で破り、さらに影響力を強めていた。

秀吉と手を結んでいた信雄は、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては、織田信忠嫡男:三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は徳川家康に接近して秀吉に対抗した。

天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は同13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、同17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は同28日に尾張小牧(小牧山)に着陣した。

秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると薬田に布陣し、4月初めには森長可、池田恒興らが三河国に出兵した。同9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した。

この「小牧・長久手の戦い」は羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。

詳細情報

  • 生没年:1542年12月26日〜1616年4月17日(天文11〜元和2)
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 通称:次郎三郎
  • 幼名:竹千代
  • 尊称:大御所、神君
  • 神号:東照大権現
  • 官位:征夷大将軍、太政大臣、贈正一位
  • 享年:75歳(家康は健康オタクであった。)

年表

  • 1542年:三河国に生まれる
  • 1547年:織田・今川の人質となる
  • 1560年:桶狭間の合戦で今川家から自立
  • 1575年:長篠の合戦に参戦
  • 1584年:小牧・長久手の合戦
  • 1600年:関ヶ原の合戦で西軍に勝利
  • 1603年:征夷大将軍に任命
  • 1605年:将軍職を2代目将軍秀忠に譲る
  • 1615年:大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼす
  • 1616年:駿府城で病死

徳川家康肖像画

徳川家康

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戦国時代の武将とは
戦国武将とは、応仁元年(1467年)に戦国時代の幕開けのきっかけとなった大乱である応仁の乱が勃発してから、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で摂津大阪城が落城するまでの約一世紀半の間に、武力・知力・財力などを用い、その名を天下に知らしめた武将のことです。
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